自己のアイデンティティを否定する分野については人は謝れなくなるし、人は老いる度にできる事が減っていくという話

人は老いると謝れなくなるのだろうか?それとも権力を手にすると謝れなくなるのだろうか?はたまた自分の自信のある部分でミスをすると謝れなくなるのだろうか?

自分の尊厳、アイデンティティが破壊される事柄については謝れないのではないだろうか?と考える。誰だって自信が欲しいし、今ある自信は保ちたい。でないと自分がこの世界に生きていて良いのか分からなくなるから。

じゃあその自信ってどこから来るのか?というと、それは金だったり権力だったり体力だったり技術だったり知能だったり人気だったりする。それは本当に人それぞれだから、互いに互いの長所を認めあって協力し合うみたいなケースもあり得たりする。

で、例えば自分のアイデンティティの根源が「知能による人気」だった場合、披露した「知」が誤っていた場合、自分の知能が否定され、さらにそれに紐づく人気も下降することになる。誤りを認め謝罪することが自己を否定する事になってしまう。そうなると謝る訳にはいかなくなる。謝る訳にはいかないから、ご自慢の知能で屁理屈を捏ねる、論点を逸らす、別の話題に変える、なかったことにする。そうやって自分自身を守る。

これは短期的には成功するだろう。しかしその振る舞いは知的ではない。つまりは間接的に自分の知能を自分で否定することになる。それでもアイデンティティは保ちたい。ならばどうするかと言うと「誤った知能でも良いから披露し、それで人気を獲得し続ける」という形態に変化せざるを得なくなってくる。誤った知識を謝罪して修正できなければ誤魔化し続けるしかないし、それは「もっともらしい嘘」を付き続けることになる。

それはそれで確かに知的な活動ではあるが、嘘の情報の上での論理的で知的な活動で人気を獲得するという行為を重ねていくと、それは「学者とか実学に根ざした専門家」ではなく「教祖様」的な存在へと変貌していく。

昔、一世風靡した宗教団体だって知的な人間が論理的思考で話を展開していたものだ。だが、それは嘘の上での知的さであり、前提が嘘なのだから全部嘘だった訳である。

教祖様の最後は様々なのだが、私はあまり良い結末を聞いた事がない。まぁ、その手の上手く行った人はあまり話題に挙がらないだけかもしれない。

自分を科学に基づいた知的な人間だと思いながら教祖様になっていく姿は滑稽に思えてしまうので、どうにか自己のアイデンティティの拠り所を修正できれば良いのだが。まぁ、人間というのは年を重ねれば重ねるほどに変わるのが難しくなっていくから、何とも言い難い話なのだが。

自己のアイデンティティの構築まで考えて人生とは設計しなければいけないのだなぁ、と思う今日此頃だった。