事実は存在するが、それは個人において絶対的な価値を有する訳ではない

世界という物は自分の感覚を通してしか理解できない。他人に何を言われようが、最終的には自分の感覚器官と脳みそによって世界の有様を決定するのである。

だから「地球ってのは平べったい形をしていて、端っこの方まで行くと落っこちるんだってさ!」という意見をその人の脳みそが信じ込んでいるのならば、それがその人の世界なのである。

その人が思う世界では、地球は平べったいのである。

現在では、地球とは青くて丸いもの、という定義がされている。それは科学的な事実らしい。実際に確認したことはないが。
だが、我々はそれを信じ込んでいるから、地球は青くて丸い世界を我々の中に構築している。

事実は無論、事実であり真実である。だが、真実だけがその人の世界を構築する訳ではない。その人が信じ込む物事がその人にとっての事実なのである。

科学を信じる大多数の人間からすれば、それに反する人は馬鹿でしかないだろう。だが、それでも信じ込んでいる物事がその人にとっては真実なのである。

実際に目で見た訳でもなく、「科学とは何か、証明とは何かをまともに説明できなくとも」、テレビで地球の映像を繰り返し見せられているだけでも、私を含む大半の人間は「地球は青くて丸い」と信じ込んでいる。そしてそれ以外の意見を持つ人間を馬鹿だと思う。常識が欠落していると思う。

現代人の大半は、「やっぱり地球は平べったいのが真実だった!」と主力メディアが科学的っぽい言説で力説するならば信じてしまうのである。知識人っぽい人に大金を払って宣伝活動でもしてもらえば効果絶大である。

真実は真実であるが、だが真実なんてたかがその程度のものだ。

記憶ってのは案外書き換えるのが簡単らしい。人は信じたい物を信じるらしい。

だったら、社会に迷惑を掛けない程度ならば、真実など多少雑に扱ってしまってもいいと思うのだが、それは間違っているだろうか?

嘘でも自己を幸福にする物事を信じてはどうだろうか?
嘘か真実か判断不能な物事を悪い方向に考えて絶望するよりかは幾分健全であろう。