怒りが制御できなかった時の自己正当化の醜悪さとか、後悔とか。

怒りは絶対的な悪だろうか?
そんな訳がないと私は思う。それが生存にとって絶対的に不利益なものであるとしたら、怒りは多くの人々にとって忘れ去られた感情であるはずだからだ。

人類が脈々と受け継いできた能力や性質は、今迄生きてきた中で何らかの役に立ってきたはずだ。

不要な能力や不利益な性質は、生存にとってマイナスだから切除されてきた。だから残存している感情である怒りはきっと必要なのだろう。

そうやって制御できない怒りを発散させてしまった私は自らの行いを正当化している。自分の悪癖を正当化するのも生存には必要だったのだろうか?そうなのかもしれない。

怒りが生存に必要ならば、自己の醜さを盲点にする能力も生きていく為には必要なのかもしれない。生きる為には汚い事も醜い事も自分がどうしようもなく嫌いになる行為もしなくてはいけない場合だってある。

そういう自己嫌悪に耐えられない美しい生き物は、とうの昔に絶滅してしまった。今もなお生存している我々の遺伝子は強靭であるか知的であるか狡猾であるか醜悪であるかのいずれかなのだろう。強靭かつ知的であればいいなぁと思う私は狡猾で醜悪だと思う。

まぁ、怒ってしまった訳だ。自己の縄張りを守る為に、周囲から軽んじられない為に。動物として自然だろうか?社会を生きる為には必要だろうか?まぁそうだろう。

だが、疲れた。面倒である。仕方ないとは言えども自己嫌悪だ。

もっと穏便な方法はなかったか?もっと器用に立ち回れなかったか?もっと上手に言いくるめられなかったか?そんな後悔が襲ってくる。

暴力の代償は「闘争か逃走」だ。つまり反撃されるか忌避されるかだ。友好な未来があるとは思えない。すり寄って来るかもしれないが、それは友好ではなく一時的な服従である。油断はできない。

あぁ、本当に面倒である。怒りをコントロールして自由に操れないだろうか。