素晴らしい物事が日々生まれる度に、それを生み出せなかった自分が本当にこの世において必要のない存在であることを実感する。

才能がある人間はいつの時代も現れる。
老人はそれを否定するが、それは老人に才能を見る才能が欠落しているからである。

別に私に才能がなくても画期的な技術は生まれるし、科学は最先端を更新し続けるし、素晴らしい音楽も誕生する。

素晴らしい物事が日々生まれる度に、それを生み出せなかった自分が本当にこの世において必要のない存在であることを実感する。

音楽に救われる自分もいるけれど、救われる側の人間なんかに必要とされるだけの価値がないことに気付いてまた絶望する。

そういう意味では本当に救われているのは救っている人間なのである。

才能に溢れ、使命があり、救える人がいる。そんな満たされた状況にこそ人は救われるのだ。

それに気付いてしまうと私は嫉妬してしまう。素晴らしい何かが誕生し、それが私の生み出したものではないと明々白々と理解できてしまうと、救われるなんて感情はなくなる。逆に蔑まされているような気分だ。

それなのに、素晴らしい物は素晴らしいから何度も耳を傾けてしまう、目を向けてしまう、手に取ってしまう。

誰かの才能に寄りかかっている日々に慣れきってしまって嫉妬を覚えた自分すら忘れてしまう自分に落胆する。悔しいと思い続ける才能すらないのかと。

施しを受けるだけの人生は、それはそれで辛いものだ。
物語の登場人物になれない人生は、やはり虚しいものだ。

だが、大半の人間はそうだ。それを、仕事だとか家族とかで誤魔化すのである。

なくても良い仕事、大して意味のない仕事、私じゃなくてもできる仕事。
才能のない子供、魅力のない将来、社会的義務感で縛られた家庭。

それで誤魔化すのである。それで足りなければ慈善活動でもするのだろう。娯楽で誤魔化すのだろう。

私は誰も救えないし、だからこそ私は救われない。そういう事実を直視して、自分の価値を諦めた先にしか、才能のない人間が幸福になる道筋はないように思う。