創作が「現実で満たされなかった欲望」を如実に表現しているのが物寂しい

創作は現実の裏返し

創作活動にも色々ある。
現実の延長線だったり、現実とはかけ離れた世界だったり、現実では叶わない話だったり。

昔の私が知っていた創作は、現実とはかけ離れたファンタジーの世界に連れて行ってくれたから魅力的だった。

だが今の私が知っている創作は、現実では満たされない欲望を補完する役割を担っている、何か寂しさを感じさせるものになっている。

例えば「なろう小説」なんかがそうらしい。
属している社会に虐げられているけれど、実は自分は逸材であり、虐げてきた人々は痛い目に遭う。

そういう展開で、現実での苦渋を想像で中和しているようである。

創作の楽しさが、現実の悲しさに依存しているなんて寂しい。

需要だとか分析だとか、面倒な概念が入荷されたからそう思ってしまうのだろうか。

そもそも創作とはそういうものなのだろうか。

創作の見え方が逆転したから

創作が「現実で満たされなかった欲望」を満たすという役割を担っている、という情報を頭に入れた上で創作物を拝見すると、没頭できないのである。

そらそうだろう。自分が魅力的に感じる創作物は「私が現実で叶えることに失敗した欲望」で構成されている思い知らされてしまうからだ。

「自分ができなかったこと」の真逆を写されるということは、結局、否定されているのである。

そんなものを見て、幸福な気持ちで没頭するのは難しい。

子供の頃は、そんなことは考えない。というか、子供はまだ「失敗した」と断定できない年齢なのだから没頭できるのである。

逆か、逆だろう。子供は創作物を見て欲望を芽生えさせるのである。創作物の主人公を自分に重ね合わせて夢を描くのだろう。

なんかその辺を考えると「大人になってからゲームに集中できなくなった」みたいな話も納得できる。

集中力がなくなったのではなく、希望がなくなったのである。
欲望が芽生えるのではなく、欲望を解消させているからである。
そしてその事に気付いてしまうからである。

中途半端に頭が良いくらいならば、いっそ馬鹿の方が得なのだろう。