嘘とは空想世界を作り上げる技術である

嘘を貫こうとしてしまう心理は、客観的に見れば許せない。だが、それでも状況と体調の悪さが重なれば、自分でもそういう事をしてしまうのかとも思ってしまう。

嘘をつかないという行為のみに着目するならば、嘘をつかない事は難しくない。というか、なんで嘘なんかつくのか?馬鹿なんじゃないだろうか?と思うだろう。

しかし、嘘をつかなかった場合の金銭的損失、精神的ダメージ、将来的な展望、なんて事を鑑みると、嘘を貫く事に何らかのメリットが生じる場合だってある。

それも立場が大きくなればなるほどに、それは大きくなる。当然損失も大きくなるが。

だから、政治家が虚言で失職したりするニュースはよく聞くが、それだけに嘘には利益があるとも言える。無論、リスクも大きいのだが。

リスクとリターンを天秤にかけて、嘘という行動を選択する意味がある状況は間違いなく存在するのだろう。でなければ、これだけ嘘をつく人がいる訳がない。古来からの生存繁栄の為の知恵の一つなのだろう。

善悪を抜きにすれば、嘘も一つの生存手段。しかしながら、リスクの大きい高等テクニックだとも言える。

正直は美徳だとされるが、同時に正直は手軽なのである。だって、深く考える必要がないから。嘘を考える必要もなければ、ついた嘘に貫く為の嘘をつく必要もなければ、ついた嘘を覚え続ける必要もない。圧倒的に脳のコストが低いのである。

その代わり、嘘に成功したのならば、正直な者を出し抜くことだって可能だ。この場合、正直者は馬鹿を見ることになる。

正直者は馬鹿を見るというが、馬鹿は正直でいる事しかできないのである。嘘付きでいる為には、知的でいる事が絶対条件だ。

だから、「正直者は馬鹿を見る」と悲観的な思想に陥っていないで、嘘がつけるくらいに知的になる努力をする事は大事なんだろうな、と思う。その上で悪徳的な嘘をつかない人間になれれば立派な事だと思う。

まぁ、きっと誰にだって嘘をつこうと思った状況はあるだろう。その嘘が良い嘘なのか、悪い嘘なのか。その上で、嘘を付くことにしたのか、嘘に成功したのかは人それぞれだろうが、自分の身の丈以上の事はしない方がいいんだろうな。

単なる事実としては、嘘とは空想世界を作り上げる技術でもある。
良い空想も悪い空想もあるし、空想が得意な人も苦手な人もいる。
コストは掛かるしリスクもあるがリターンもある。

一概に嘘は悪いとも言いたくないが、よくよく考えるべき代物だと思う。

痛みがあると碌な事がない。無駄で邪悪な痛みの存在について。

痛みがあると碌な事がない。
食事をするにしても歯茎が腫れていると楽しくない。噛む度に痛いのだから当然だ。

胃が痛いと辛い。
普通に読書しているだけでキリキリと胃が痛むと集中力は削がれるし、感情移入なんてできたものではない。

痛みというのは自己中のメンヘラみたいなもので、自分に意識を集中して貰う為に、他の全てを犠牲にする傾向がある。
で、痛みに集中して貰った所で、実際問題どうこうする訳ではないのだ。

治す術がある訳でもなく、痛みに集中した所で痛みが和らぐ訳でもない。
じゃあ、何のために他の行動を阻害して中断させるのか?意味が分からない。

痛みに集中しても意味がなく、他の行動が制限されるなんては、自分という個体にとっての損失ではなかろうか?

意味のある痛みもあるのは分かるが、意味のない痛みがあるのも確かだろう。

そういう意味では、大切な痛みに紛れて不要な痛みを発生させるような邪悪な細菌なんかがいるんじゃないだろうか?そういう気がしてしまう。

何だってそうだろう。

皆を助ける為の救済の為のお金を悪い奴が不当にくすねてしまったりとか。
悪い人を成敗する為のルールを悪用して気に喰わない人を無理やりルール違反にしたりとか。

そういう人間の役に立つ為の機能を悪用して人間を苦しめる存在というのはいるのである。

それが、邪悪な痛みなんじゃないだろうか?

まぁ、知らんけど。

ただ、痛くて何もできないくせに、眠れる訳でもなく何もする事もなく、そういう無為な時間を過ごすのは非常に苦痛なので勘弁して頂きたい。

人は飽きる生き物だが、それでも満足できないなら進化し続けるしかないのだろう

人が進化し続けるのは現状に満足できないからだ。言ってしまえば、人が幸せで居続けることは難しい。

欲しい物が手に入っても、数週間もすれば飽きる。
恋人と結ばれても、1年もすれば飽きる。
念願の子供が生まれても、理想とは違い落胆する。

イメージと現実はかなりの違いがあるらしく、人はその差を埋めることができない。
だから、欲しい物が手に入っても、それは理想ではないので、また欲しいものができる。

その繰り返しで、まぁ多少は理想に近づいてはいるのだろう。
飢餓に喘いでいた人々の理想を今現在の日本人は叶えているのだから、昔に比べればマシなのは確かだ。

だが、それでも人間は贅沢な生き物であり、こんな素晴らしい理想でもまた足りないと言う。
まぁ、実際問題、足りないのだろう。

自殺する人間もいるし路上生活をする人間もいるし体に難を抱えて生きている人間もいる。
五体満足で食生活が充足していたって、心を病んでしまって命を落とす人間が多くいるのだ。


こう、「人生は死ぬまでの暇潰し」という格言が結構有名になっているけれど、どうなんだろうか?
聞けばカッコいいフレーズなのは分かる。欲望にとらわれていないで、人生を楽しんでいる様が思い浮かび、憧れる。

だが、やはり足りないものは足りないのである。足りないと思う心は確かに存在するし、「人生は死ぬまでの暇潰し」というフレーズでは満足できない心が存在するのも確かだ。

だったら、その不満を満たす為の努力をしていくことが正しいんじゃないだろうか?
自分一人では完成まで漕ぎ着けることができなくても、誰かに経過を託して成果にする事が大事なんじゃないだろうか?

つまりは、充足している現代だけど、やはり今は発展途上なんだと自覚し、科学的な物か何かを進化させる為に努力するのが正しい姿勢ではないだろうか?

まぁ、結局は心で問題そのものをなかった事にするのか、科学で問題を解決するのかって話である。
心は柔軟だが、どんな動きでもできる訳でもない。
心に無限のエネルギーがある訳でもない。

とある天才の心の強さから発される「人生は死ぬまでの暇潰し」というフレーズに憧れて真似をするのは、フィジカルエリートがパルクールをする姿に憧れて真似をするようなものだ。

真似は達成されずに怪我をして死ぬ。それがオチである。

ならば、少しでも理想に近づく為の別の努力をするのもまた一興だと思うのだが。

でも結局それも暇潰しなのだろう。

背もたれとアームレスト、実は不要なんじゃないか説

背もたれって必要だろうか?あるから使っているけれど、ないから何か問題があるとは限らない。

仕事でアームレストを使う機会がないけれど、それでも十分に仕事はできている。自宅にはアームレストがあるけれど、実際問題、それがどれだけの幸福を生んでいるのかを自覚していない。

案外、なくしても問題なく生活は回るのではないか?とつい最近思う。

最近、ミニマリスト的な思考に染まってきてしまっているから、デカイものは捨てたいし、いらないものは排除したいのである。

この辺の発想の問題は「必要なものまで捨ててしまうこと」である。捨てることでマイナスになることだってあるのだから。

だが、不要かどうかは捨ててみないことには分かるまい。だから今私は背もたれもなく、アームレストもない椅子で文章を書いている。

するとどうだろうか、左肩が痛い。これは単純に筋肉痛だからだろうか?少なからずアームレストのレスト効果が減少した事によって左肩筋肉が使用されているのだろう。

それに慣れていないから無駄に筋肉を使ってしまっている部分も否定はできない。

だから、しばらくこの椅子で生活してみるのがいいじゃないかと思った。

人が人を好きになる理由は自己都合なのだが、それを愛とかで飾り付けようとする理由はなんだ

人が人を好きになる理由は様々だが、その根底には「自分にとって都合が良い」という利得がある。

愛とか情とかを語った所で、その根底には自分にとっての利得が絶対にある。
別に愛とか情を否定するつもりは一切ない。むしろ高尚なものだと確かに思う。

だが、「何を利とし、何を害とするのか」の基準が個々人によって違うだけであり、皆、ちゃんと利に向かって思考を巡らせた上で人を好きになっている。

そうなると、自分があの人を好んでいる理由を深く考えることは、「自分にとっての都合の良さ」を知ることのキッカケになる。

何故それが欲しいのか?愚痴を聞いてもらえるから、自信を持たせてくれるから、寂しさを紛らわせてくれるから、金銭的利益があるから、権力の威光を味方に付けられるから。

まぁ、そんな社会の汚い欲に塗れた理由ばかりではないだろうが、それでも何らか理由があって人は人と関わる。

「好き」という感情は、そのままなら曖昧で綺麗なものであり「美しい愛」とか何とか言ってしまえるくらいに陶酔できる人もいる。

だがそれは残念ながら、自己の欲求に根ざしたものであり、おとぎ話に出てくるような人智を超越したような精神ではないのだ。

なのに、人は人に対する「好き」の感情を何故か綺麗に脚色してしまうのだ。飾り付けてしまうのだ。

人は自分本位な動物なのだが、不思議でその本質を直視したくないようである。

痛みや苦痛は放っておくと忘れてしまうからこそ、意識して覚えておくべき

人は痛みを忘れる。物凄く痛いものでも、結構忘れる。
その瞬間は「もう二度とこんな思いをしない為に頑張るぞ!」的な決意をするのだが、決意というのは簡単に薄れるものらしい。

で、大概の人は1年もすれば忘却の彼方で、また同じような愚行を犯し、また痛い目に遭う。

何の為の痛みか?被害を拡大させない為の痛みではないのか?今後の被害を予防する為の痛みではないのか?

痛みは人体にとって有益だからこそ、瞬間的な苦痛を飲み込んでいるはずだと思っているが、実際の所はあんまり意味のない痛みってのもあるんじゃないだろうか?

苦しんだ分だけ強くなれるとか、痛みを感じた分だけ成長できるとか、そういうのはJPOPが作り出した「まやかし」なんじゃなかろうか?

何の利益のない痛みもあるだろうし、何の見返りもない苦しみもあるのだろうと思う。努力すれば報われるというのは、ある種の世間やそれ以上の存在に対する甘えなのであろう。

だからこそ、人は痛みを覚えるべきで、それ存分に工夫して回避すべきなのである。本能的な記憶だけに任せて次なる痛みを享受してはいけない。痛みも苦労もいつか忘れるけれど、我々から何も奪わない訳ではないのだ。

ダイエットを成功させる為には、理性が上手に立ち回り、本能の機嫌を伺う必要がある。

腹の脂肪は本当に邪魔。健康的なデブというのは実際には存在しない概念だと言うことが最近ニュースになっていたけれど、本当にそうだと思う。

邪魔で仕方ない。基本的な生活にはそこまで支障はないけれど、些細な場面、ピンポイントな場面で腹の脂肪は私自身に嫌がらせをしてくる。
この脂肪を自分自身が作り上げたと言う事実を信じたくないくらいに不快である。

だから私はこの脂肪を除去しなければいけないのだが、これが中々減らない。何故減らない?腹は減るのだ。ならば腹が減るタイミングは脂肪がなくなったタイミングではないのか?普通。

おかしいのである。腹が減るのに腹の脂肪はご健在である。脂肪があるのに腹が減り、腹減りを放置すると元気がなくなる。いやいや、まずお腹にある脂肪を使えって話なのだが、生命維持の観点からすると慎重を機したいのであろう。

死ぬくらいならば太る方がマシ。そういう風に本能は考えるのだろう。基本的に本能は生き延びる事、余裕があれば繁殖する事しか考えない。それ以外はそれに比べたら些末なイベントであるらしい。

だが理性の私はそれが不快である。生命に多少の危険があってもいいから痩せろよ!思うのだが、そうはならないのである。意識は無意識の下僕なのだろう。

という訳でリバウンドしないように何ヶ月も根気強くダイエットに励むより他ないのである。本能様のご機嫌を損ねないように理性は立ち回る必要がある。